スカイラインに囚われて

配給

ユニバーサル・ピクチャーズ

ユニバーサル・ピクチャーズ (Universal Studios、Universal Pictures) は、アメリカの大手映画会社の一つです。アメリカ三大ネットワークの1つ、NBCとともにNBCユニバーサルの傘下に属します。本社はカリフォルニア州ロサンゼルス郡のサンフェルナンド・バレー地区にある自治体・ユニバーサル・シティにあります。また配給などの部門はニューヨークに置かれています。テーマパークのユニバーサル・スタジオは、NBCユニバーサル傘下の別会社によって運営されています。ユニバーサルは現存するアメリカの大手映画会社としては、二番目に古い歴史を誇ります(最古のパラマウント映画の1か月後に発足しました)。

映画で感動!
沿革

ユニバーサル・ピクチャーズの創業者カール・レムリー(Carl Laemmle)は、ユダヤ系ドイツ人で、1884年にドイツ南部ヴュルテンブルク州ラウプハイムからアメリカへ移民し、ウィスコンシン州オシュコシュに住み衣服店を経営しました。1905年、買い付けで赴いたシカゴで初めてニッケルオデオンと呼ばれる安価な映画館の人気に触れました。一説では、レムリは数時間も切符売り場を見つめて客数を数え、一日の売り上げがいくらになるかを計算したといいます。シカゴへの旅から数週間で彼はそれまでの商売をたたみ、ニッケルオデオンを数軒買収し映画ビジネスを始めました。1908年、映画関係の特許多数を持つ発明王トーマス・エジソンは、自社をはじめとする当時の映画製作会社や配給最大手ジョージ・クライン、フィルムを製造するイーストマン・コダックと組んで、映画配給を独占するトラスト「モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー」(Motion Picture Patents Company, MPPC, 別名エジソン・トラスト)を設立しました。レムリほか当時の映画館経営者にとって、これはトラスト参加各社の作る映画を上映する度に料金を払わねばならなくなることを意味しました。エジソンは映画用カメラや上映機など映画関係の機械に使われる電気モーターなど、多数の部品の特許をたてに、映画の撮影から上映までのすべての過程から料金を徴収して映画産業独占を強めようとしました。レムリほか不満を抱いたニッケルオデオン経営者らはエジソンへの料金支払いを回避するために、独自の映画製作を行うこととし、1909年6月、カール・レムリとエイブ・スターン、ジュリアス・スターンはヤンキー・フィルム・カンパニー(Yankee Film Company)を設立、同社は急速に拡大しインディペンデント・ムービング・ピクチャー・カンパニー(Independent Moving Picture Company, 略称 IMP)となりました。レムリは、出演料の高騰を防ぐため俳優の名を映画にクレジットしないというエジソンらの慣習を破り、登場するスターらの名を表示するようにしたため、当時の主要な映画俳優の多くがレムリらと仕事することを望んだと言われています。こうして彼はスター・システムの形成に成功しました。1910年、それまでバイオグラフ・スタジオ(Biograph Studios)の映画に出演し単に「バイオグラフ・ガール」と呼ばれていた女優フローレンス・ローレンスの宣伝を手掛け、アメリカの映画会社として初めてスター俳優の名を映画のマーケティングに使用することとなりました。1912年6月8日、レムリはIMP社とその他8つの中小映画会社を合併し、「ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー」(Universal Film Manufacturing Company)を設立、ここではじめて「ユニバーサル」の名が登場します。レムリは、マーク・ディンテンファス(Mark Dintenfass)、チャールズ・バウマン(Charles Baumann)、アダム・ケッセル(Adam Kessel)、パット・パワーズ(Pat Powers)ら共同経営者らの中でも代表的な人物であり、最終的には彼ら全員の株を買い取り追放しました。このユニバーサル社は映画館は持たなかったものの、複数の映画製作業者と映画配給業者が水平統合を行ったものであり、1925年には有限責任の会社組織となりユニバーサル・ピクチャーズ・カンパニー(Universal Pictures Company, Inc.)へと発展します。

ユニバーサル・シティの建設

1910年代、アメリカ東部にあった独立系映画会社がエジソンの追及から逃れて西海岸に移転する動きが強まる中、1912年末にはユニバーサルもハリウッド周辺での映画製作に集中しました。この時期に採用した最初のロゴは「地球の周りをとりまく輪に、太いケンタッキー体の文字で社名を表記する」というもので、すでに今日のユニバーサルのロゴにつながるデザインでありました。1915年にはレムリは世界最大の映画撮影所である広さ230エーカー(0.9平方km)のユニバーサル・シティ・スタジオを、ハリウッドの町からカフエンガ峠を越えたところに、あるサンフェルナンド・バレー地区の牧場に開設しました。これが新しい町ユニバーサル・シティの始まりでもあります。他の映画会社と異なり、レムリのスタジオは観光客の見学を歓迎し、今日のテーマパーク・ユニバーサル・スタジオにつながっています。ユニバーサルのスタジオはハリウッドでも最大でしたが、その製作する映画はほとんどが小さな町の観客を相手にしたメロドラマや西部劇、連続活劇などの低予算映画でした。レムリの映画業界に果たした役割は革新者でありましたが、彼の経営姿勢はきわめて慎重でした。パラマウント映画の創始者アドルフ・ズッカー(Adolph Zukor)、20世紀フォックスの創始者ウィリアム・フォックス(William Fox)、MGMの創始者マーカス・ロウ(Marcus Loew)らと異なりレムリは全米の劇場網を作りませんでした。レムリはまた自社の映画全ての資金集めや出資をおこない、借金をすることを拒びました。この方針は、同社が起用した俳優・映画監督エリッヒ・フォン・シュトロハイムが『悪魔の合鍵』や『愚かなる妻』などの諸作にきわめて贅沢な製作費を注いだことで破綻しかけましたが、ユニバーサルは扇情的な宣伝を行って観客を集め、巨額の製作費の一部を抜け目なく回収しました。次作の『メリー・ゴー・ラウンド』(1922年)ではついにユニバーサルと衝突したシュトロハイムは製作途中で追放されました。1920年代のユニバーサルにおいては、性格俳優ロン・チェイニーが大人気スターとなり、特に劇映画で活躍しました。彼がユニバーサル時代に放ったヒット作には『ノートルダムのせむし男』(1923年)『オペラの怪人』(1925年)があり、後のホラー映画に大きな影響を与えます。レムリはこの時期、製作方針の決定を「天才少年」と呼ばれたプロデューサー・アーヴィング・タルバーグ(Irving Thalberg)に任せていました。タルバーグはレムリの個人秘書として映画業界に入りましたが、撮影所をどのように効率的に運営するかというタルバーグの洞察にレムリは圧倒され、撮影所長に抜擢しました。タルバーグは適正な脚本に適切な俳優とスタッフを起用し、サイレント映画時代のハリウッドには他に類を見ないほどの効率的で収益の高い映画製作をもたらし、『ノートルダムのせむし男』などの大成功の功労者となりました。より多額の支払いを約束したライバルのルイス・B・メイヤー(後のMGMの創始者)は1924年にタルバーグの引き抜きに成功し、タルバーグの導きを失ったユニバーサルはその後数十年間、二流のスタジオの地位に甘んじています。大手映画スタジオ(メジャー)のうち、5大メジャー(ビッグ・ファイブ)と呼ばれる、スタジオ経営から映画館網の所有までの垂直統合を成し遂げた5つの大手映画スタジオに対して、ユニバーサル、コロムビア映画、ユナイテッド・アーティスツの3社は独自の映画館網を持たないため、メジャーの中でも一段低い位置にあり、「リトル・スリー」と称されていました。1926年、ユニバーサルはドイツに新たな映画撮影所、ドイツユニバーサル映画(Deutsche Universal-Film AG)を設立し、ジョー・パスターナク(Joe Pasternak)が製作を指揮しました。この製作班は1936年にナチス支配の強まるドイツからハンガリーへ、さらにオーストリアへと移転し最終的に消滅するまでの間に、年3本から4本の映画を製作しています。トーキー映画の登場後、彼らはドイツ語をはじめとしてハンガリー語、ポーランド語による映画を製作しています。ユニバーサルはドイツ子会社の製作映画をアメリカ本国で配給することはなかったですが、ニューヨークなどにあった独立系配給業者や外国語映画配給業者に売って英語字幕なしで公開させています。

アニメーション映画製作とディズニーとの係争

ユニバーサルがアニメーション映画とそのキャラクターをめぐり起こした係争は、アニメーション映画業界の形成、特にウォルト・ディズニー・カンパニーの形成に大きな影響を与えました。1927年、映画プロデューサーで配給業者のチャールズ・B・ミンツ(Charles B. Mintz)は、マーガレット・J・ウィンクラー(Margaret J. Winkler, ワーナー・ブラザーズ創業者のハリー・ワーナーの元秘書で、フライシャー・スタジオとの仕事やフィリックス・ザ・キャットの版権獲得などで初期のアニメーション映画製作に重要な役割を果たしました)と結婚し、彼女の会社ウィンクラー・スタジオの経営を掌握しました。ウィンクラー・スタジオを率いる彼は、ユニバーサル映画から、ユニバーサルが配給する予定の新作アニメーション映画シリーズの製作を受注しました。この『しあわせウサギのオズワルド』(Oswald the Lucky Rabbit)シリーズは、ウォルト・ディズニーのアニメーション映画スタジオの初期の共同経営者であったアブ・アイワークス(Ub Iwerks)により製作されました。若き日のディズニーは当時、ウィンクラー・スタジオと契約して数々の短編アニメーションを手掛けており、『オズワルド』もそうした一編でありました。『オズワルド』シリーズは1927年、ユニバーサルによる劇場公開で高い収益を得ました。キャラクターを作ったのは、ディズニーの一員のアイワークスでありましたが、その所有権はユニバーサルにありました。ディズニーは、より高い契約を求めてミンツと交渉にありましたが、ミンツは『オズワルド』の所有権をてこに、ディズニーに低料金での製作を受け入れるよう要求しました。交渉の結果ディズニーは要求をのむことを断り、ユニバーサルを去りましたが、大ヒットした『オズワルド』を作ることのできなくなったディズニーとアイワークスは、ウサギのオズワルドの見た目を若干手直しした、ネズミのキャラクター「ミッキーマウス」を作りました。トーキー方式で公開された『蒸気船ウィリー』(1928年)で、ミッキーマウスが初めて登場し大成功を収め、ディズニー帝国が第一歩を踏み出した一方、以後も1930年代半ばまで『オズワルド』シリーズを作り続けたユニバーサルは『オズワルド』に続く大ヒットキャラクターを生み出すに至らず、比較的マイナーなアニメーション製作者となるにとどまりました。

レムリ家による縁故主義とミュージカル、ユニバーサル・ホラー

1928年、カール・レムリは、息子であるカール・レムリ・ジュニアの21歳の誕生日プレゼントとして、ユニバーサル・ピクチャーズの社長の地位を与えました。当時すでにユニバーサルには縁故主義の評判が立っており、レムリの親戚のうち70人がユニバーサル・ピクチャーズで仕事を得ていました。そのうちのほとんどは甥であったため、カールはスタジオ関係者の間で「カールおじさん」と呼ばれていました。新社長カール・ジュニアは、ユニバーサルを時流に合った会社にするよう父カール・シニアを説得しました。カール・ジュニアは劇場網を買収し新たな劇場を造り、スタジオをトーキー映画製作に転換させるなど高品質の映画作りに向けた攻撃的経営を行いました。この努力は、部分的にトーキー化されたミュージカル映画『ショウボート』(1929年)、テクニカラーを導入した贅沢なミュージカル映画『ブロードウェイ』(1930年)、ユニバーサル初の全編カラーのミュージカル映画『キング・オブ・ジャズ』(1930年)などに結実しました。また『西部戦線異状なし』は1930年のアカデミー賞で作品賞を受賞しました。カール・ジュニアはさらに、ニッチな分野であったモンスター映画の分野でロングラン・シリーズを手掛けて大成功を収めました。これが1931年の『魔人ドラキュラ』を始めとする『フランケンシュタイン』(1931年)、『ミイラ再生』(1932年)、『狼男』(1941年)などのユニバーサル・ホラーと呼ばれるホラー映画で、これ以後ユニバーサルはホラー映画で世界的に名をはせることになりました。ドラキュラ、フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間、狼男といったユニバーサル・モンスターは現在も幅広い世代に愛され、リメイクやユニバーサル・スタジオのアトラクションなどを通じてユニバーサル・ピクチャーズに利益をもたらしています。この時期カール・レムリ・ジュニアが手がけた映画には、ほかにもドラマの佳作『模倣の人生』(Imitation of Life、1934年)や、スクリューボール・コメディ『襤褸と宝石』(My Man Godfrey、1936年)などがあります。しかしこうしたトーキー化・カラー化などの高品質路線や攻撃的経営は会社の財政を傾けてゆきます。

レムリ家の追放と低予算映画への移行

カール・ジュニアが映画製作の近代化や、製作から上映までの垂直統合などを進めた時期は、ちょうどアメリカが大恐慌の底に落ち込んだ時期に重なっており、この時期の大規模投資はきわめてリスクが大きなものとなってしまいました。管財人の管理下に置かれてしまいます。映画館チェーンは解体されましたが、カール・ジュニアは、なおも配給から製作までを支配していました。レムリ家によるユニバーサル社支配の終焉は、1935年末、1929年に大成功した『ショウボート』を、ブロードウェイでの舞台化の際の俳優を起用してさらに、贅沢にリメイクしようとしたときに訪れました。株主の間では、以前からカール・ジュニアの費用のかかる映画製作に対する警戒は存在し、1935年初頭に巨額を投じた西部劇『黄金』(Sutter's Gold)が興行に失敗して以来、警戒心が高まっていました。彼らはレムリ家が製作費の借入を行わない限り『ショウボート』の製作を開始することは許さないと反発しました。ユニバーサル経営陣は製作費にあてるため、レムリ家の所有するユニバーサル映画の経営権を担保にして、75万ドルをスタンダード・キャピタル(Standard Capital Corporation)から借入れざるをえなかったのです。これはユニバーサル社の26年の歴史で初めての映画製作のための借金でした。製作費は様々なトラブルから予定より30万ドルも超過し、手元の運転資金のなくなったユニバーサルには、スタンダード・キャピタルに返す金もない状態でした。スタンダード・キャピタルは抵当権を流し、1936年4月2日に経営権を掌握しました。1936年版の『ショウボート』は大成功し、今日でもミュージカル映画史上最高の作品として高い評価を得ています。しかし、こうした好評はレムリ家を救うことはできず、彼らは自分たちが創業した会社から冷たく追われることになります。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドにある西部劇のセットスタンダード・キャピタルの社長・ジョン・チーヴァー・カウディン(John Cheever Cowdin)は、ユニバーサルの社長および取締役会会長となり、映画製作費に対し大なたを振るりました。ウィリアム・ワイラーやマーガレット・サラヴァンといった名監督やスターらとの関係や契約も打ち切られ、彼らはユニバーサルを去りまする。第二次世界大戦のはじまったころには、ユニバーサルは西部劇、メロドラマ、連続活劇などの低予算映画や、ユニバーサル得意の怪奇映画の低予算の続編などを細々と製作している状態となりました。この時期、ユニバーサルのドイツ子会社で若いソプラノ歌手を起用した軽いタッチのミュージカルをプロデュースして成功を収めてきた、ジョー・パスターナクがアメリカに亡命し、同様の映画をユニバーサルで展開しました。10代の歌手ディアナ・ダービン(Deanna Durbin)はパスターナクのアメリカでの最初の映画『天使の花園』(Three Smart Girls, 1936年)を大成功に導き、破産状態のユニバーサルを救いました。1930年代後半のユニバーサルを存続させたスターを一人挙げるとすれば、まちがいなくダービンです。しかしダービンが大きくなり、それまでの10代の少女役をこなせないようになり、大人の女優への転換を図ろうとしたとき、スタジオは13歳のグロリア・ジーン(Gloria Jean)と契約し、それまでパスターナクのミュージカル映画でダービンが演じてきた役を、ジーンに演じさせました。ジーンはビング・クロスビー、W・C・フィールズ(W. C. Fields)、ドナルド・オコナー(Donald O'Connor)らと共演しています。経営危機の時代のユニバーサルには、安定したスター俳優が少なく、他のスタジオの契約俳優を借りたり、フリーの俳優を雇用したりといったことが日常でした。ジェームズ・スチュワート、マレーネ・ディートリッヒ、マーガレット・サラヴァン、ビング・クロスビーらは、この時期ユニバーサルの複数の映画で仕事をしたスター俳優たちです。スター俳優には、ラジオから進出した者(W・C・フィールズ、エドガー・バーゲン(Edgar Bergen)、アボットとコステロ(バッド・アボット Bud Abbott とルー・コステロ Lou Costello の2人組コメディ俳優)など)もいました。特にアボットとコステロの軍隊慰問映画『凸凹二等兵の巻』(Buck Privates、1941年)は大ヒットとなり、バーレスク芸人出身の「凸凹コンビ」はアメリカの国民的大スターとなって、ダービンの軽ミュージカル映画で息をつないでいたユニバーサルの経営を支えました。戦時下のユニバーサルでは、プロデューサーのウォルター・ウェンジャー(Walter Wanger)と監督フリッツ・ラングのコンビによる映画も製作されましたが、『Cobra Woman』『Frontier Gal』などといったセクシー女優の活躍する秘境冒険ものなどが、上映スケジュールの大半を占めていたユニバーサルでは、目立たない存在でした。1930年代末から1940年代半ばにかけての時期も、ユニバーサルの観客と言えば、近隣の小さな映画館に通うような観客が主であり、スタジオはこうした観客のためにコメディや連続活劇などの低予算映画を多数製作していました。アクション活劇の『Dead End Kids』シリーズや『Little Tough Guys』シリーズ、冒険コメディの『Baby Sandy』シリーズ、ヒュー・ハーバート(Hugh Herbert)出演のコメディ映画シリーズ、フランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・狼男・透明人間・ミイラ男などの登場する怪奇映画シリーズ、ベイジル・ラスボーン主演のシャーロック・ホームズもの、グロリア・ジーンやドナルド・オコナー、ペギー・ライアン(Peggy Ryan)らティーンエイジ俳優主演の青春ミュージカル、ラジオドラマから生まれたサスペンス映画シリーズ『インナー・サンクタム・ミステリーズ』(Inner Sanctum Mysteries)などが挙げられています。こうした低予算映画中心のラインナップであったため、ハリウッドのメジャー映画スタジオの中では、三色法によるテクニカラー方式を使った映画製作を最後に導入したスタジオとなりました。ユニバーサル最初のテクニカラー映画は1942年のジョン・ホール(Jon Hall)およびマリア・モンテス(Maria Montez)主演のスペクタクル映画シリーズ『アラビアン・ナイト』シリーズでした。1944年にクロード・レインズとネルソン・エディ主演でリメイクされた『オペラの怪人』でもテクニカラーが使用されました。

ユニバーサルの映画ライブラリ

ユニバーサルはハリウッドの他のメジャー同様豊富な映画ライブラリを保有しています。ユニバーサルが創業以来製作してきた短編映画・長編映画(ただし1931年版の『哀愁』、および1936年版の『ショウボート』は、現在ワーナー・ブラザーズが所有し、1947年の映画『二重生活』はリパブリック・ピクチャーズが所有する)、レヴュー・プロダクションやユニバーサルが製作してきたテレビ番組のほとんどは、ユニバーサルがライブラリに所有しています。加えて、ユニバーサルは1950年以前にパラマウントが製作したトーキー長編映画のほぼすべても所有する(これらは1957年、MCAが名義のみの子会社EMKAを通じてパラマウントから買収しており、1962年のMCAによるデッカ買収でユニバーサルの管理下に移されました。EMKAのライブラリには、1948年のMGM製作のフランク・キャプラの映画『愛の立候補宣言』 State of the Union もありますが、これはパラマウントがリバティー・フィルムズ買収時に手に入れたものです。またもともとパラマウントが製作したアルフレッド・ヒチコックの映画のうちいくつかも入っています)。ユニバーサルは、ウォルター・ランツ・プロダクションによるアニメーション映画のライブラリ(ウッディー・ウッドペッカー、チリー・ウィリーなど)も保有しています。ユニバーサルのアート映画部門フォーカス・フィーチャーズのライブラリには、同社の前身であるUSAフィルムズ、オクトーバー・フィルムズ、1996年から1999年までのポリグラム・フィルムド・エンターテインメント製作映画なども含まれています。また1973年以前のNBCのテレビ番組やテレビ映画のライブラリもユニバーサルが所有します。また1952年以前のユナイテッド・アーティスツ製作映画のいくつか、アルフレッド・ヒチコックの監督でワーナーが製作した映画『ロープ』、RKOの映画ライブラリの英国上映権などもユニバーサルが所有しています。

松竹

松竹株式会社(しょうちく、英: SHOCHIKU Co., Ltd.)は、日本の映画・演劇の制作・興行・配給を手掛ける会社です。歌舞伎の興行については、現在ほぼ独占的に手がけています。映画会社としては東宝・東映に並ぶ上場邦画3社の一角、かつての五社協定における大手5社の1つです。創業は1895年で、設立は1920年11月8日(帝国活動写真株式会社の設立日)です。元来は演劇興行です。現在は歌舞伎を主に新派、松竹新喜劇も手掛けています。かつては、文楽(人形浄瑠璃)や歌劇(SKD - 松竹歌劇団、OSK - 大阪松竹歌劇団)、演芸(浅草松竹演芸場、道頓堀角座、神戸松竹座等)から相撲興行やプロ野球(セ・リーグ加盟の松竹ロビンス)、ボウリング、アイススケートリンクの運営等幅広い活動を行い、一時は松竹交響楽団なる本格的なオーケストラまで所有していました。1995年には創立100年事業の一貫として、松竹大船撮影所の敷地内に「鎌倉シネマワールド」なるテーマパークを開業させましたが、不入りでわずか3年で閉鎖に至りました。メディア対策として、東宝や大映(現:角川書店)等と共にフジテレビジョン(フジテレビ)の会社設立に参加(1959年開局)。なお、現在はフジテレビ旧会社法人の後身に当たるフジ・メディア・ホールディングス株式の殆どを放出している反面、松竹大株主の10位以内に東京放送ホールディングス(TBSHD)の名が連なるなど放送局との関係に変化が見られています(両者とも認定放送持株会社です)。一方では、通信衛星を利用した自社製作の番組(映画、テレビドラマ、劇場中継等)を中心に流す「衛星劇場」「歌舞伎チャンネル」等を立ち上げ、現在に至ります。2005年、創業110年を記念した女優発掘オーディション松竹STAR GATEを歌舞伎座で開催しました。かつては松竹で、社員監督には助監督時代から脚本が書けなければなれないと言われており、他社の作品と比較し、監督が脚本を兼務する作品が非常に多かったのが特徴でした。

あの名作を大紹介!
広いリビングで過ごす毎日は最高だよ!不動産 静岡が広いお部屋をたくさんご提案します☆広いお部屋探しは静鉄不動産が見つけます!